彼らは夜に名前を付けた。

アイドルとは、日常を特別な一日に変える優しさと強さを持つ人々のことである。

【ネタバレ注意】舞台"アルトゥロ・ウイの興隆"の恐ろしさを体感してきた。

 白井晃演出、草なぎ剛主演の新作舞台"アルトゥロ・ウイの興隆"に衝撃と、恐ろしさを覚えたので、私なりの解釈をここに記録する。本記事には脚本・演出のネタバレを含むため、まだ観劇されていない方はご注意ください。


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"アルトゥロ・ウイの興隆"について

 "アルトゥロ・ウイの興隆"はドイツ演劇作家ベルトルト・ブレヒトによって描かれた戯曲である。アドルフ・ヒトラーが独裁者として上り詰めていく過程を、シカゴのギャングの世界に翻訳して描かれた衝撃作である。今回、この衝撃作をKAATの芸術監督である白井晃の演出と、俳優として評価の高い草なぎ剛の主演により、横浜の舞台に甦らせた。白井晃草なぎ剛のタッグは、2018年に発表された"バリーターク"で既に実現されており、前作(バリーターク)が音楽と空間を有効に使った舞台であったことから本公演(アルトゥロ・ウイの興隆)も特に演出面で強い期待が寄せられていた。

凄惨な政治的史実をエンターテイメントとして描く

 本作の主役、アルトゥロ・ウイのモデルはアドルフ・ヒトラーである。彼による独裁政治は、ユダヤ人迫害や同性愛者や障害者等を対象とした虐殺など、極めて凄惨な史実として知られている。"アルトゥロ・ウイの興隆"はそうした凄惨な、つまり観客に大きなストレスを呼び起こしうるテーマを、シカゴのギャングによる八百屋業界の支配という、よりポップで規模の小さな架空の世界に翻訳している。これにより、観客側のストレスのリスクを減らし、エンターテイメント性の高い舞台に仕上げている。
 さらに特筆すべきは、劇中随所で用いられるジェイムス・ブラウンのファンクミュージックである。このファンクミュージックにより舞台をさらにポップに仕上げている(なお、ジェイムス・ブラウンの曲が今回起用された理由は、彼がヒトラーが政権を掌握した1933年に生まれたこと、ギャング映画に縁があるということなどがある。もうひとつ、自身が感じた重要な理由があるが、それは後述する)。舞台の基本的な演出は、シカゴで起こる様々な事件を主軸に、アルトゥロ・ウイやその仲間達によるファンクミュージックの生ライブ、場面転換毎に挟まれる史実の要約により構成されている。

架空としてのアルトゥロ・ウイと実在としてのアドルフ・ヒトラー

 前述の通り、"アルトゥロ・ウイの興隆"では、シカゴのギャングが八百屋業界を掌握する過程がエンタメ性高く描かれている。しかしその場面展開の間隙に、ギャングや周辺人物の動向が、史実ではどのようにあったのかを、その要約文がスクリーン上に映される。その瞬間私たちは、演者によってドラスティックに、時にコミカルに演じられた支配までの過程が、実在する独裁までの道程であることを思い出す。

──私が私として生きることを、許して欲しい。 アンネ・フランク

 アドルフ・ヒトラーの独裁により、自由に生きる権利を理不尽に奪われた人が存在したこと、そしてそれが今後も私たちの身にも起こる可能性があるという事実を、決して忘れてはならない。

インタラクティブな演出とファンクミュージック

 白井晃/草なぎ剛タッグの前作舞台"バリーターク"では音楽を活用した観客巻き込み型のインタラクティブな演出があった。今回の"アルトゥロ・ウイの興隆"では、そのインタラクティブな要素がさらに強くなっている。まず、1F観客席をふんだんに使い、舞台を観客席上まで積極的に侵食している。また、演者から観客席へ言葉を投げ掛けるシーンもある。これらの演出から、我々は"アルトゥロ・ウイの興隆"の世界に強烈に巻き込まれてしまう。はたしてアルトゥロ・ウイのライブを聞いていたのは、横浜に訪れた観客としての私だったのか、それともシカゴで生きる民衆としての私だったのか。すべての境界が曖昧となる。
 劇中でふんだんに使われるノリのよいファンクミュージックは、観客を強く惹き込む要因のひとつである。生演奏特有の迫力のあるサウンドは、自然と観客をリズムに揺らせる。私たちは、演者やダンサーの手拍子に合わせるように、手拍子を返す。ふと、私はその光景に不穏な既視感を覚えた。
 アドルフ・ヒトラーは演説が非常に巧みであることで有名だった。彼の演説に当時の多くの国民が虜になった。今、KAATの舞台では、華やかなファンクミュージックが演奏されている。私たちは、その音楽や演者に合わせて手拍子をする。中央ではアルトゥロ・ウイが歌っている。"アルトゥロ・ウイ"が"歌っている"。はたしてこれは本当にただの演奏と解釈してよいのか?本公演は様々な要素が史実とオーバーラップしている。アルトゥロ・ウイは、アドルフ・ヒトラーに。シカゴは、ドイツに。八百屋は、民衆に。ではこの歌は?ヒトラーは何を通して民衆を魅了していた?演説だ。ならばこの歌は?アドルフ・ヒトラーの恐ろしいほど魅力的な演説ではないのか?それではその歌を、何も疑わずに聞き惚れて手拍子までしてしまっている私たちは誰だ?ヒトラーの演説に、虜になってしまった無垢な"民衆"ではないのか?私たちは、いつからこのライブを"疑う"という発想を失っていた?

2020年の私たちの生きる世界に寄せて

 「第三次世界大戦が起こるかもしれない」。誰かがそう嘆いていた。2020年は、肌を生々しくひりつかせる、戦争の予感で幕を開けた。また、日本国内だけを見ても、止まることのない少子高齢化、経済の停滞、未だ乏しいダイバーシティなど、不安は尽きない。加えて、魅力的な政治家もそう多くはないときている(あくまで私見だが)。そのような不安定な状況の中で、アドルフ・ヒトラーのような、一見魅力的な政治家が現れたら、私たちはその人を本当に疑えるだろうか?アルトゥロ・ウイのパフォーマンスに、何も疑わずに魅了されてしまった私は、今はその警戒心を、信じることができずにいる。
 "アルトゥロ・ウイの興隆"は間違いなく名作であり、一方で衝撃的な問題作でもある。私は今この瞬間に、この作品を見ることができた幸運に感謝している。こんな世界が不安定な現状の中、臨場感を持ってアルトゥロの、ヒトラーの、独裁過程を観劇することができたのだから。